2007年1月28日日曜日

-観念的踊り子と唯物的中年男-

先週末の夜、友人(真性童貞31歳)と渋谷で食事をした。
だが、そこに女性が合流するでもなく、かといってナンパが出来るような
容姿も勇気も持ち合わせていない2人なので、週末の繁華街に来たという
テンションへの見返りとしてストリップに行くことにした。

入り口で、戸籍の所有すら疑わしいスパイシーな香りのする老人に3,000円を払って
中に入ると満席で不愉快な熱気に包まれおり、上着を脱いでも汗が溢れ出てくる。
私は体中から滲み出る体臭を気にしたが館内の過半数を占める中年男どもの
強烈な加齢臭に掻き消された。我々は座ることが出来ず立ち見を余儀なくされ、
込み合う座席後部スペースでなんとか定位置を確保できた頃、タイミングよく
次の踊り子がステージに登場した。
暗いステージにライトが照らせれ、そこに和服姿でひれ伏している女性の姿が浮かびあがる。
踊り子が着物の裾を捲りすっと起ち上がると大音量で「天城越え」が流れ始めた。
燃える女の情を演じるのであろう。
憂いを帯びた表情で視線を落としながらゆっくりと着物を剥がし、その白肌を覗かせ始めた。
踊り子の乳房が露出した時点で早くも私のそれ自身は完成形となっていた。
曲の盛り上がりとともに踊り子は着物を全て脱ぎ去り、その裸体の全てを晒した。
私は滅多に拝むことができない生裸体をなんとか見ようと必死に顔を動かしていたら、
隣で友人も全く同じことをしていて、その必死さから滲み出てる不細工さに我々2人が
遺伝子を後世に残せる可能性が限りなくゼロに近いことを確信した。
ステージの上では踊り子が客席に股を広げ、汗に濡れ、憎しみとも愛とも分からない
表情で自慰をしている。
「憎しみは愛の裏返し」という情念は自慰でも表現できるのである。
舞台は終幕に向け加熱していく。踊り子が髪に刺していたかんざしを手に取り、追いすがる
ようにその手をかざし、乱れた髪の中で目を潤ませながら指先の向こうの虚空を見詰める。
私は当初はち切れんばかりに膨張していた股間が静まりかえっていることに気付いた。
そう、これは彼女にとって芸術的表現なのだ。彼女は全身全霊で女の情念を演じているのだ。
彼女にとっては全裸であることも自慰も二次的なものに過ぎない。
齢は30過ぎぐらいであろう。過去にいろいろありここに流れ着いたのであろう。
最初はただ脱いで陰部を客に晒せばいいぐらいに思っていたのかもしれない。
しかし人はどんな状況にあろうが自己の存在意義を見出そうとするものである。
狭小化された活動の中に少しでも他者とは違う何かを見出したなら、それは選別意識を伴って
肥大化し、自己の帰依する場所へと変移していくのである。
かく言う私とて例外ではない。私の迷妄した選別意識は自尊心の自律性を狂わし、
((ほぼ)素人)童貞であるということさえ存在意義の拠り所としてしまっているのだから。
彼女にはこの渋谷の場末のストリップ劇場もブロードウェイの舞台と変わらないのであろう。
感極まったのか、うっすらと目に涙を浮かべている踊り子のすぐ前の特等席で一人の
中年男が時が止まったかのように凝固していた。両肘をステージについて体を乗り出し、
首をぎりぎりまでひねって顔を上に向け必死の形相で喰い入るように踊り子の陰部を凝視している。
彼女が想いを込めた踊りも仕草も、陰部のみにロックオンしている中年男には"見える・見えない"
のどちらかでしかない。この中年男にとって踊り子はただ観音様を拝ませてくれる女に
過ぎないのだ。だってここはストリップ劇場なのだから…。

「人は分かり合えるんだ」
カミーユ・ビダンの言葉が私の心に虚しく響いた。

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